映画「奇蹟がくれた数式」を観て
中田さんのYoutube大学でも紹介されていましたが、インドの天才数学者を基にした映画ということで、その天才ぶりがどのような雰囲気であったかを知りたくて視聴しました。
数式は、神が舌の上においてくれた
天才数学者ラマヌジャンがどのようにして数式を発見したのか、という時のセリフでした。ただ、これは和訳なので、実際何と言っていたのかが知りたくて、英語のWikiサイトなどを見ていたのですが、近いものはありませんでした。(映画の脚色で付け加えられた言葉なのかもしれません。)
舌、と言ってしまうと、何かしゃべり言葉の状態で思いつくのかな、と考えたのですが、きっと「Outputできる状態になった」ことを示しているのでしょう。Outputできる=意識的に描ける、ということは、Outputできない領域=意識的に描けない状態が存在するわけで、ラマヌジャン的にはそれが神の領域、だったのではないでしょうか。
前から見ようと思ってた、「奇跡がくれた数式」を観た。
— しげ@元プログラマ (@sigeo5) 2020年7月23日
インドの天才数学者ラマヌジャン、彼の頭の中を想像するに、無意識の部分で緻密な計算をし続けて、ある時ふっと公式が意識の方に現れるってタイプだったんだろうな。
閃きと同じ原理だけど、その過程を言語化=証明するのは難しいんだろうなぁ…
また、映画中にも出てきましたが、神に関する発言として、こちらは英文がありました。
"An equation for me has no meaning unless it expresses a thought of God."
”神の考えを表現するという他に私にとって方程式の意味はない。"
すべての正の整数は彼の友達
ラマヌジャンを招聘したイギリス人数学者ハーディの同僚で、同じく数学者のリトルウッドのセリフです。
"Every positive integer was one of Ramanujan's personal friends."
”すべての正の整数がラマヌジャンの個人的な友人の一人だった"
正の整数、とあったので、そうなのかな?と思って英文も見たところ、「positive integer」とあるので正しいみたいですね。
ここでどうして整数なんだろう、と思ったのですが、小数ってある意味終わりがないんですよね。いくらでも作れてしまう。0.4以上はある、でも0.5にちょっと足りない、なら0.45かな?とか。
こういうことを考えていたら、数字の性質とは、「量」ではなく「番号」なんだろうな、とふと感じました。例えば、リンゴが2個あって、1個目のリンゴと2個目のリンゴは全く同じものではないはずです。形も、重さも、味も、全く一緒ということはおそらくあり得ません。だけど、この2つは、1、2と数えられるわけです。1個目は300g、2個目は200gかもしれないのにです。
先ほどの小数はどちらかというと「量」を表したいがための数値で使われることが多いです。10.25g、2.3kmとか。なので、「量」だけでなく「番号」を表すことができる整数は、特殊な性質なんだろうな、と素人目に感じました。
もしラマヌジャンに聞くことができたら、当たり前だといわれるかもしれないですね。
ただ、個人的には、頭のいいインド人の方々は説明が大好きという印象なので、延々と教えてくれるかもしれません。