読書「1%の努力」
発売前から気になっていた、ひろゆきさんの新刊「1%の努力」を読んでみました。
心に残った個所に絞って、記録したいと思います。
自分にとっての「大きな岩」は何だろう
ひろゆきさんが挙げているエピソードとして、「大きな岩」の話がある。
大学の講義で、先生が大きな壺に岩をいっぱいに入れて、生徒に「この壺は満杯か?」と尋ねる。生徒が満杯だ、と答えると、先生は砂利や砂を取り出してきて、壺に入れると入ってしまう、という話。
実は頭の中には工夫すればたくさん入るんですよ、ということを示したかったのかと思うと、逆の発想で、先に砂利を入れてしまうと大きな岩は入らない、という教訓だった。
ここでの大きな岩は自分にとって重要なもの、砂利はその他の重要ではない何かである。自分にとってそこまで重要でないことばかりに人生の時間を使っていると、大きな岩はもう入らないよ、ということだ。
大学の講義で、先生が大きな壺に岩をいっぱいに入れて、生徒に「この壺は満杯か?」と尋ねる。生徒が満杯だ、と答えると、先生は砂利や砂を取り出してきて、壺に入れると入ってしまう、という話。
実は頭の中には工夫すればたくさん入るんですよ、ということを示したかったのかと思うと、逆の発想で、先に砂利を入れてしまうと大きな岩は入らない、という教訓だった。
ここでの大きな岩は自分にとって重要なもの、砂利はその他の重要ではない何かである。自分にとってそこまで重要でないことばかりに人生の時間を使っていると、大きな岩はもう入らないよ、ということだ。
大きな岩は、ひろゆきさんにとっては睡眠とのことだ。寝たい、という気持ちを一番の優先事項として、それがたとえ誰かの誘いを断ることになっても、後で謝ればいいやくらいの気構えでいる。
そう気づくと、私たちの時間はそれこそたくさんのそこまで重要でないことで埋め尽くされている気がする。社交辞令としての飲み会、惰性で開かれる会議、見返すかどうかもわからない説明資料・・・といった仕事上の無駄から、掃除、料理、洗濯・・・といった日常の家事まで。そういったことに忙殺されていると、いや忙しくなくてもなんとなくそれしかやっていないと、本当に大事なことに時間を割けなくなってしまう。そうして、不満だらけの日常になってしまうのだ。
これって遺伝子なのか、環境なのか
ひろゆきさんは子供のころの学区は公営団地の人が多かったとある。公営団地への入居は一定以下の年収が条件なので、お金持ちはいない。仕事をしていない人もいれば、ギャンブルに給料をつぎ込む人もいるだろう。別にそれでも団地の家があるから生きていける。
逆に裕福なエリート家庭の生まれだったらどうだろうか。お金には困らないだろうから、学校は私立が当たり前だし、親の援助で留学したり、就職も有名どころの企業に入社したりするかもしれない。
結局は環境が個人の性格や進路に大きく影響する。
毎日だらしなくワイドショーばかり見ている親を見ていれば、自分もゲームばかりしててもいいやと思うし、逆に仕事をバリバリこなして、子供の相談にも乗ってくれる親がいれば、子供は親のようになりたいと勉強を頑張るかもしれない。
このあたりのことは、自分も地方の出身なのでなんとなく想像できる。特に、エリート家庭の多い関東の人々に会うと、地方とのギャップを感じずにはいられない。
海外に行くと差はもっと大きい。世界の貧困層の子供が大学まで通える確率はほぼ0だろうと思う。下手をすると、大学、というものすら知らないかもしれない。それだけをとっても、日本に生まれたということは、かなり環境に恵まれているということだ。
99%の努力と1%のひらめき、というエジソンの言葉は、1%のひらめきがなければ残りの努力は無駄なのだ、とひろゆきさんは説いている。でも、ひらめかなかったとしても、それはそれで自分のポジションをとって生きていけばいい、とも言っている。
生きていくこと自体は少なくともこの日本では、イージーモードなはずだから。
「1%の努力」は、今の状態に疑問を持っている人に、新しい見え方を教えてくれる。